文学部古文書室展示会
資料4:『石城日記』
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『石城日記』解説

展示資料4
 石城日記(七巻) 竪帳 各23.7×16.6p 文久元年〜文久2年

展示キャプション
 武蔵国忍藩(埼玉県行田市)の下級武士である尾崎石城が、文久元(1861)年6月から翌年4月にかけて記した絵入りの日記。 絵を得意とする石城によって、食事や酒宴、読書などの日常生活がユーモラスに描かれている。

解説
 本資料は、当室所蔵文書のなかで、もっとも閲覧・利用申請の多いものの一つである。絵入りの日記によって、 武士の日常生活がユーモラスに描かれ、ページをめくると、食事・酒宴の光景、 読書の様子、祭りの賑わいなどが色彩豊かな絵の数々が目に飛び込んでくる。
 日記の著者である尾崎石城(準之助、襄山)は、武蔵国忍藩(埼玉県行田市)の十人扶持の いわゆる「下級武士」であった。扶持とは、一日男性一人あたり5合、女性3合換算で月ごとに 支給される手当である。ただ、この手当だけでは生活は立ちゆかないため、石城は得意の絵の才能を活かし、 屏風・掛け軸・行灯などの絵の注文を受け作品を制作する副業を生計の足しにしていた。その下絵なども日記に見ることができる。
 このようにして得た収入で、石城は毎日のように多くの友人を呼び、あるいは友人を訪ね、また料亭へ仲間たちと繰り出していた。 常に5・6樽を飲むなどの記述もあり、よほど酒好きだったようである。これらの酒席の場面は日記に多く描かれており、 江戸時代の武士の日常生活の一面が浮かび上がるものとなっている。
 文久年間(所収期間は文久元年6月〜翌2年4月)は言うまでもなくまさに幕末動乱の時代であった。 日記の中には、時勢や情報に対する関心が垣間見えるような記載もあり、石城の「下級」ではあるが「武士」としての意識や 矜持も感じられる。その一方で、穏やかな友人知人達との日常生活の記録が大半であり、これもまた同時代の真実なのであろう。

参考
 大岡敏昭『幕末下級武士の絵日記』(2007年、相模書房)
 原田信男『江戸の食生活』(2009年、岩波書店)
 石島薇山『新修 忍の行田』(1927年、行田時報社)
 慶應義塾大学三田メディアセンター発行「三田メディアセンターニュース」(2007年2・3月号の「貴重書紹介」)

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石城日記

翻刻

(六月廿一日) 今日江戸への状、岡実浅井糸賀等認、麦こかし二袋糸賀浅井へ送る
夕方ハ東作同道ニて行田ニ遊ふ、途笹岡善三郎 三月西国付手(カ)引こし 仮宅へ立寄、大黒
屋ニ至る、早速さけ出 あけもの しそ茄子 爰ニて大分酔、夫より丸やへ状たのミ長徳寺に行
しに、和尚又直しにしめもの出ス、予酔中殊ニ直しをたしまされハ、早々に辞し
けるに、東作のすゝめにて大利の楼に登る 玉子やき 茶碗盛 うなき なす甘煮 八百文 大に酔てかへる
そのさま図のことし

   六月廿二日 己卯 晴
大蔵寺にあそふ、午後仮寝ス
夕龍源寺より岡村土屋に遊ふ、九ツ前かへる


土屋の図
仁右衛門 襄山(石城) 荘七郎 勇太郎


十二月十日 癸亥 晴
八碑後龍源寺に遊ふ、障子
切はり手伝ひ、かへり三木に
立寄
髪を束ね金毘羅へ賽ス

和尚 石城 食客


四月二日 甲寅 晴
朝川の舎に遊ひしに、今日田楽催したし
との事也、三木を招くへしと思ふに同人不在也
川の舎両人ニて酌へしとて、吾折節嚢中乏
し同人に託して帯一筋を典し、六□を得て右
にて酒食し、長谷川常之助を焼方に命
し、八碑半より始む 川の舎肴を求め来り、同人
料理薄暮より酌む
          目黒さしミ
        目黒ねぎ ぬた
        鯔塩やき  蓮根
        豆腐田楽
        さけ 三升
        枸杞めし
寺嶋元太郎岸お俊手伝ひ飯を食ス
夜ニ入勇来る、後幸内来り一二盃を喫し
帰る、予酔臥す
午後井狩六助来り、扇子たのミ認遣ス


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『石城日記』画像

第一巻 第二巻 第三巻 第四巻 第五巻 第六巻 第七巻 附録


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