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展示資料12 武蔵国児玉郡傍示堂村宗門人別帳 竪帳 26.4×16.0p 寛政4年3月 展示キャプション 江戸時代、キリシタンではないことを証明するために作成された帳簿。各戸の構成員、続柄、年齢などが記され、檀那寺の印が押された。 解説 江戸時代、キリシタン禁圧のために、踏絵などを用いた宗門改めが行われ、その結果が「宗門人別帳」に記録されていた。 「宗門人別帳」には、戸ごとに戸主・家族・奉公人の名前・性別・年齢、各人の檀那寺が記され、キリシタンでないことを証明する檀那寺の印が捺された。 本来、宗門改めの結果を記した帳簿の「宗門帳」は、徴税・徴兵・治安維持のために各領主の戸口調査を記録した「人別帳」とは別のものであったが、 寛文11(1617)年に幕府が人別帳を元にして宗門改めを命じたことから、全国的に「宗門人別帳」が毎年作成されるようになった。 宗門人別帳には村の総人口や戸数が記録されているため、五人組帳や村明細帳・村鑑にも用いられた。 時代が下るにつれて、宗門人別帳はキリシタン取締りというより、むしろ人口調査のための戸籍簿としての性格を強めるようになり、 出稼ぎや「帳外れ」といった人口移動を確認する記録簿となり、治安維持のためにも利用された。 当史料には、檀那寺・家族関係・名前・年齢・牛馬数が記載されており、馬に関しては「鹿毛(赤毛)」といった特徴が記録されている。 武蔵国児玉郡傍示堂村には越後への三国街道と中山道の分岐点(追分)があり、正徳3(1713)年以降は川越藩の御用人馬継ぎとして 上野前橋―川越間の通行を担当していた。 当史料における檀那寺はすべて真言宗円満寺である。現在の埼玉県域では当時、新義真言宗が主流で (児玉郡では真言宗派の内、古義が1派、新義が76派)、真言宗智山派の円満寺は新義真言宗に属していた。 参考 速水融『江戸農民の暮らしと人生:歴史人口学入門』麗澤大学出版会、2002 木下太志『近代化以前の日本の人口と家族―失われた世界からの手紙―』ミネルヴァ書房、2002 埼玉県『埼玉県史 通史編4』埼玉県、1979 トップに戻る 寛政四子年三月 百姓代 五郎左衛門 永嶋直兵衛様御内 橋本専右衛門殿 先年より代々名主役相勤候 一 真言宗圓満寺 旦那 伝左衛門 五拾四歳 武州男衾郡 竹沢村長兵衛娘 女房 同寺旦那 たみ 四拾八歳 男子 同寺旦那 半十郎 弐拾六歳 武州榛沢郡 牧西村順五郎娘 女房 同寺旦那 のよ 拾九歳 男子弟同寺旦那 栄次郎 拾六歳 同弟 同寺旦那 茂十郎 拾壱歳 トップに戻る
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