| |||||||||||
展示資料13 去状之事(武蔵国埼玉郡栢間村) 一紙 24.6×34.8p 元治2年4月 展示キャプション 江戸時代、庶民の離婚は夫からの「離縁状」の交付と、妻からの受領書が交付されることによって成立した。離縁状は本文が三行と半分で構成されるため「三行半(みくだりはん)」と俗称された。 解説 江戸時代、庶民が婚姻関係を解消するには「離縁状」の交付が必要であった。離縁状は夫からのみ交付することが原則であったため、 妻に婚姻関係を解消する権利はなかった。そのため妻が離婚を望む場合には鎌倉の東慶寺や上州新田郷の満徳寺に代表されるような 「駆込寺」「縁切寺」と通称される寺が存在し、妻は寺で2年間の奉公をした上で離婚の仲介を願い出ることが可能となった。 縁切寺での離婚については、一定期間寺で奉公した後に夫から強制的に離縁状を差し出させる「寺縁離縁」と、寺の仲介・説得により 双方の示談で離婚を成立させる「内済離縁」があり、このことから当時の庶民の離婚は必ずしも夫の専権であったわけでないことが伺える。 離縁状の本文の多くは夫からの離婚を言い渡す文言と、今後は誰と再婚しても構わないという再婚許可の記された文言から構成され、 これをもって妻は再婚が可能となった。また離婚文言、再婚許可文言のどちらか一方のみが記述されている離縁状も存在するが、 そのような場合でも離縁状として有効であるとされた。 公事方御定書の規定によれば、離縁状を受領せずに再婚した妻は重婚となり髪を剃って親元へ帰された。 一方で離縁状を交付せずに再婚した夫も同様に罪とされ、「所払」の刑に処された。 所払とは江戸時代の刑罰の一つで居住の町村から追放し、立ち入りを禁止するものであった。 妻が離婚を望んでいるにもかかわらず離縁状を書かないのは夫の恥とされており、また離婚にあたって夫が 離縁状を書かないために妻が夫に離縁状を請求する訴訟に及んだという事例も存在する。 「三行半」という名称については離縁状の多くが3行と半分にまとめられていたことからそのような俗称がついた。 また当時、字を書けない人が離婚をする場合には3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより離縁状と同等の 取扱いがされた。 離婚の理由については様々あるが、いわゆる「三行半」と通称される書状の中の離婚文言には 「我等勝手に付」や「不縁に付」など離婚を行う簡単な理由が記されるのみで、たとえ離婚の責任が妻にあった場合でも 具体的理由に関して明記はされていないことが多い。 本史料の場合も「此もの不熟ニ付離縁仕候」とあるように、妻と離縁するという簡単な理由が記されているのみで 具体的理由は記述されていない。「三行半」は離縁状であると同時に再婚許可書でもあるため、 離婚理由に妻の不利になることは書かないのが良いとされた。 参考 霞信彦 『日本法制史』 慶應義塾大学出版、2012 高木侃 『縁切寺東慶寺史料』 平凡社、1997 高木侃 『三くだり半と縁切寺 江戸の離婚を読みなおす』講談社、1992 穂積重遠 『離縁状と縁切寺』 日本評論社、1942 井上禅定 『東慶寺と駆込寺』有隣堂、1995 トップに戻る 翻刻 去状之事 一 此もの不熟ニ付離縁仕候、 猶然上ハ何方江縁付候共 差構無御座候為後日 依而如件 元治二丑年 四月 栢間村 繁太郎(爪印) 坂田村 ゑひ方江 トップに戻る
トップに戻る | |||||||||||
本サイト内のすべてのコンテンツ(文章・画像など)の無断転載を禁じます。 |