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展示資料14 御役所日記 竪帳 23.0×16.7p 文久3年 展示キャプション 御役所とは五摂家の一つである二条家の公的な役務を差配する機関で「家司」(けいし)と言われる家臣たちが詰めていた。時には家政に関することも執りおこない、日記には、役務内容や人の出入り、世情などが記されている。 解説 五摂家のうちの一つである二条家は、内裏の東北側、今出川御門外に屋敷を構え、山城国を中心に1700石余の家領を所有していた。 奥向きの出入を管理していた内々番所(当室に関連文書あり)、門番が詰めていた表番所をはじめ多くの部局があった。 そのなかで、御役所は二条家の役務を差配する役所であり、時には家政に関することも執りおこなっていた。 「家司」(けいし)と言われる家臣たちが役所に詰めており、日記には人の出入りや世情などが書き上げられている。 展示している頁は、文久3年4月11日条である。当時、尊王攘夷の急先鋒であった長州藩の建議と、彼らに荷担する攘夷派公卿の三条実美らの計画により、 孝明天皇は将軍の徳川家茂を伴い、前月11日に両賀茂社へ行幸し、攘夷祈願をおこなった。ちょうど1ケ月後のこの日、前月に引き続き攘夷祈願を 石清水八幡宮にておこなうことになった。 日記には、二条家の当主も参内し、自ら総勢30人近い従者を引き連れ、それに随行したことが記録されている。 この行幸には家茂は病という理由で供奉しなかったが、その後攘夷決行をせまられ、5月10日を攘夷期限と宣誓し、 長州藩は下関海峡において外国船砲撃を実行した。 文久3年(1863)8月19日条では、前日に起こった「八月一八日政変」について触れ、「諸藩之者共甲冑ニ身固、 大筒石火矢其外小筒弓抜身之槍等ニて厳重ニ御警衛奉申上」と、御所の門が固められ 長州藩や三条実美らの公家が御所から締め出されている騒然とした様子が描写されている。 参考 中村佳史「摂家の家司たち」(高埜利彦編『身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人びと』吉川弘文館 2007) 古川薫『幕末長州藩の攘夷戦争 欧米連合艦隊の来襲』中央公論社、1996 トップに戻る 翻刻 四ノ十一日 丁亥晴 惣詰 一 石清水 御行幸為 御当主御参 内御出門、丑刻 実寅早刻迄 御舟具 御位袍 参頭之 御供 御・脇四人 御先手三人 押弐人 御密之者五人 御手廻り三人内壱人 御両掛持也小者三人 笠カゴ持壱人 外ニ御提燈持五人 但シ 御雇入之者暁正丑刻入、尤明十二日還幸迄御雇ひ上ケ之事 一 宮中被為御持弁当 但御精進 御にしめ 一重 なすひ ゆりね ふ 同上 一重 岩たけ せ・は 一重 御ひたし青菜 なら漬添 しは漬なすひ 一重 御殿 一 宮中御取持 高松三位殿 同 大夫殿 右今朝精進弁当一箱宛 御酒 賜一対入上納 宮中え 相廻し候事 一 御供一同御供持之事 但御供之輩申合替り合被仰付候也 一 有栖宮様も 御当主諸取締在ニ付、取締仰合候て御固之巳半刻迄還脚 トップに戻る
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