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展示資料2 中川久清宛徳川家綱朱印状写(中川家文書) 一紙 45.7×64.7cm 寛文4(1664)年4月5日 解説 江戸時代には朱印状の発給は徳川将軍に限定され、特に新規に所領を与える場合や、 領知の所有を確認する場合などに発給されるようになった。 本文書は江戸幕府4代将軍徳川家綱が岡藩主中川山城守久清(1615-1681)に与えた 領知朱印状の写しである。「目録在別紙(目録別紙にあり)」とあるように、 領知朱印状とは別に領知の詳細を記した領知目録も作成された(展示資料6)。 本文書は写しであり、原本には「御朱印」のところに家綱の朱印が押されていた。 原本は5代将軍徳川綱吉の代替わりの際に提出され、改めて新将軍による朱印状が発給された。 朱印状の「御朱印」部分と宛先「中川山城守とのへ」の位置関係は、江戸時代の将軍と大名との関係性をよく示している。 宛名のほうが朱印(差出人)よりも下に来ていること、将軍は朱印のみで 名前が書かれていないこと、また宛名の下の敬称が「とのへ」とかなり簡略な書き方をしている点などから、 絶大な権力を持つ将軍と、7万石の大名の差が際立つような文書となっている。 領知朱印状は領知の所有権を確認するとともに、その関係性をも確認せざるを得ない場となっていたと思われる。 トップに戻る 豊後国大野郡三万九千六百六拾 四石九斗、直入郡三万四百拾八石八斗余 大分郡之内三百五拾六石四斗余、都合 七万四百四拾石余目録在別紙事、任元和三年 九月五日先判之旨、充行之訖全 可領知者也仍如件 寛文四年四月五日御朱印 中川山城守とのへ トップに戻る
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