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展示資料3 領知目録(中川家文書) 一紙 39.1×96.5cm 寛文4(1664)年4月5日 解説 領知朱印状と一緒に発給された領知目録。朱印状(展示資料2)によって安堵された領知について、郡ごとの村数、石高を書き上げたものである。朱印状とともに永井伊賀守(尚庸)、小笠原山城守(長矩)の2名をもって通達することが記されている。江戸幕府は寛文4年、将軍家綱への代替わりに際して万石以上の大名、公家・寺社・門跡に初めて一斉に朱印状と領知目録を発給したが、本文書(展示資料2、3)もその時に発給されたものである。これは新将軍による所領安堵(土地所有権の確認)の手続きであり、寛文の一斉発給は「寛文印知」と呼ばれ、以後の将軍が代替わりごとにこの「御朱印改め」の手続きを行う画期となった。 永井尚庸、小笠原長矩は奏者番として寛文の一斉発給を差配した人物である。『寛政重修諸家譜』の両名の項には、「(寛文三年十月)二十六日奏者番となり、四年六月九日萬石以上の諸家領知の御朱印を下さるゝのとき、永井伊賀守尚庸と共にこれを奉行せしにより、(以下略)」(『寛政重修諸家譜』第三、続群書類従完成会、1964年、「小笠原長矩」の項)のような記述がみられる。奏者番は江戸幕府の役職の一つで、大名・旗本が年始・五節句などに江戸城に登城して将軍に拝謁する際の取次や進物の披露を行うなど、江戸城殿中での礼式をつかさどった。また、大名家への参暇上使(大名が江戸への参勤した時、また御暇で江戸から国許へ帰る際の将軍からの使者)なども務めた。 展示資料5で徳川家綱の朱印の場所と宛所の中川山城守(久清)の書かれた場所から将軍と大名との関係性がうかがえると述べたが、それは本文書の差出・宛先の位置と比較すると、よりわかりやすい。本文書の宛所「中川山城守」は幕府奏者番であった永井・小笠原両名の署名部分よりも一段上に書かれ、敬称も「殿」となっている。将軍がいかに諸大名から隔絶した存在であったのか、2点の文書を並べると一層明瞭となる。 トップに戻る 目録 豊後国 大野郡之内 弐百五拾二箇村 高三万九千六百六拾四石九斗四升 直入郡之内 弐百四拾箇村 高三万四百拾八石八斗 大分郡之内 五箇村 高三百五拾六石四斗三升 都合七万四百四拾石壱斗七升 右今度被差上郡村之帳面相改及 上聞所被成下 御朱印也此儀両人奉行依被 仰付執達如件 永井伊賀守 寛文四年四月五日 (花押:尚庸) 小笠原山城守 (花押:長頼) 中川山城守殿 トップに戻る
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