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展示資料17 みつきはしめ 巻子 高さ28.5cm 文化2(1805)年1月4日跋 狩野秀水画、平沢常富跋 解説 毎年師走13日と正月6日に行われていた、男鹿半島の長百姓による久保田城内での酒宴の様子が描かれている。 「みつきはしめ」は、慶長7(1602)年に水戸から出羽に移封された佐竹義宣を、国境の院内まで 男鹿半島南磯の長百姓が出迎え、貢ぎ物を贈り、それに感激した佐竹義宣が彼等に酒を賜り、 直百姓とすることになった故事に基づく秋田藩の年中行事である。 城内の御厨屋で自分の「貢ぎ」の順番を車座になって緊張した面持ちで待つ百姓たちが、 無事「貢ぎ」を終え盃をいただき座に戻り、全員の「貢ぎ」が終わると殿様から賜った酒を 大きな盃で呑みほしつつ、ついには野鄙な踊りまで飛び出す酒宴となってゆく。 それを藩の役人達がなんとも言えぬ面持ちで正座のままでじっと眺めている様子が、 洒脱に描かれている。 最後は、泥酔した百姓達が、普段は厳めしい番屋の役人に介抱されつつ家路につく様子が、 絵巻物の様式にのっとり、時の流れとともに描かれている。 展示資料13で取り上げた、秋田藩主佐竹義和が狩野秀水に描かせたもので、戯作者・狂歌師として 当時名を馳せていた手柄岡持(てがらのおかもち)(平沢常富)(1735-1813)が 文化2年1月4日に跋文と狂歌とを寄せている。 なお、男鹿市船越鈴木家に架蔵されている「御吉例之図」(嘉永元年戊申菊月鈴木重孝写)は、本資料からの写しと考えられるが、 「絹篩」(『秋田叢書』第二巻所収)を編纂した鈴木重孝が、本図を丹念に写し取ったことの意味は、幕末期 農村名望家による自己認識の再構築を考える上で見逃すことができないように思われる。 鈴木重孝による写しは絵画部分は前半のみであるが、全体的な構図、人物配置等は かなり正確に写しているものの、個々人の表現、人物の省略、色使いなどいくつか違いが見られる。 「御吉例之図」の原本を確認していないが、跋文については、「松と楪をたいまつる」を「松と楪をたてまつる」に、 写し間違えている他は、ほぼ正確に写し取ってい・驕B他方、秋田叢書掲載の刊本の「絹篩」(御吉例之事)では、 「卒正」を「卒止」に、「番ところの前」を「番所の方」、「慶長のとし頃」を「慶長の頃」などなど、 数カ所に読み違え、読み落とし(校正漏れ?)がみられる。 参考文献 鈴木重孝「絹篩」(秋田叢書刊行会『秋田叢書」第二巻、1929) 男鹿市指定有形文化財・お吉例之図 謝辞 本解説執筆にあたっては、男鹿市教育委員会生涯学習課・伊藤直子さん からご協力をいただきました。 トップに戻る 跋 此ひと巻の図は男鹿てふ村のおほみたからに年 のはしめ終り大みき賜ふことのあるを狩野秀水に おほせてえかゝしめ給へる也。抑この雄鹿といふは秋田 の郡のうちにして西のうなはらにのそみ出たる島山なり。 南の磯北のいそはたま(餘)りなゝ(七)村のむら(村)をさ(長)しはすなかの 三日久保田の御城なるみくり(御厨)やにまう(詣)のほ(登)りて濱貢 を捧く鰰の目さし鮭の塩引蚫鱈黒海苔等定れる数 の外はしろかねに替てこれを納めり。又わたくしのさゝけ物 に松と楪をたいまつるこは初春の御祝ひに用ゐ給ふとなむ。 睦月六日にも又むらをさ参りてあらたなるとしのよろこひ をのはふ此ときは二十三かむらと云せいといふ貝口黒といふかひを奉る。酒賜ふ 式は冬も春も異なることなし彼ひとくさ(人民)みくり屋にあま たなみ居たるに御厨の小吏なるもの牒をもて呼出す時 みくりやのをさなる人ひとり毎に盃をやり?の鮓を みさかなにあたふこれなむ。 おほ国の君に代り奉て此盃を下す趣なれはうやまひ かしこみてうへもなきみめとす。あゆのすしは家居にもち 帰りて貯つゝわらはやみなとやめるものにいたらしむとそ。 此盃の式ことことく済て朱の大椀をひとりひとりにあたふ 酒は錫の大とくり也。みさかなは数の子の番椒味噌にて あへたるとはたはたの鮓のみ也。各大椀をもて酒を傾くる こと量・阮ウし。みなみなえひ興してひな(鄙)ふり(風俗)のうたを うたひ舞踊りほしいまゝにえらき(笑楽)してしそ(退)き出る迄も われわれはけふなむ。 大きみの御もてなしにて斯酔にきと卒正の守れる 番ところの前といへともをそれ憚ることなく放逸なるをむかし より更に咎めす却て歩卒なとたすけいたはりて帰ら しむ。此男鹿のおほんたからは慶長のとし頃常陸よりこの みくにうつり賜ひけるとき早々参りてよろこひをのはへ 貢を捧けるより今に至るまてとしとしかゝるためしとは なれりとそ。いとかたしけなき御めくみなりけり。 わたつみのふかきめくみにおほきみを あふくもたかき男鹿のしまやま 文化ふたつのとしきのとのうしのむつきよつか かしこきおほせをかうふりて 臣源常富謹識 紙のあまれるまゝに たはふれうた一首 大みきに顔赤神の神よりも かみ(上)のめくみやふしをがむ(男鹿村)らん 又男鹿のたみくさに代りて よめる三首 何何は(早)有がたくては(早)の(呑)だほどに かいによ(酔)たとてら(埒)ちくりやね(無)ては(早) にし(鯡)の子を口いぺ(一杯)ほば(頬張)たおやか(辛)れて か(辛)れもよ(拠)ぎね(無)てなば(南蛮)味噌だむだ ざこ(雑喉)す(巣)きがよ(能)かそおま(舞)やせう(諷)てとかの いぼ(蟷)うし(螂)よ(能)かとこ(是)らは(早)見て(度)む(物)だ 右 七十一漁父 てがらのをか持(花押) 『秋田叢書』第二巻 所収 何々は有かたくれはのたほどにかへによたとてらちくりやねては にしの子を口いへほはたおやかれてかれもよきねてなはみそたむた さこすきかよかそおまやせうとかのいほにしよかとこらは見てむた トップに戻る
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