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展示資料18 御用申送日記(命助御家来列召加) 竪帳 24.3×17.2cm 安政4(1857)年閏5月16/17日 解説 南部三閉伊一揆主導者の一人と目されていた命助(1820-1864)は、 仙台領での逃亡生活の後、安政3(1856)年末の京都滞在に続き、この年、二度目の上京を果たした。 本資料閏5月16日条によれば、奥州仙台藤(遠)田郡南小牛田村住三浦命助と名乗った命助は、 親類書を添えた御家臣列差加願書を、吹挙人である御側席・御勘定役・関口監物を介して 御役所詰めの諸大夫野間左衛門尉に提出したこと、 命助の願書は野間から内々番所の諸大夫津幡陸奥守に差し出され程なく聞き届けられたこと、 命助に対して翌日巳刻に御家臣列仰付がなされる旨伝達されたこと、などを知る事ができる。 展示した17日条では、二条邸に出頭した命助に対して、諸大夫松波大炊頭が野間左衛門尉同席 のもと御家来列召加を仰せ渡したこと、同時に、小田原提灯・差絵符・人馬帳が下付され、命助は 上納金10両を支払ったことが記録されている。 命助の御家来列召し加えについては、「御側日記」17日条、御勘定所「雑日記」17日条、 「御家来御立入等願人名前帳」16日条、本学三田メディアセンター所蔵「内々番所日記」17日条 などにもそれぞれ記録が見られ、安政4年の「御家臣名前記」には未勤寄合席に三浦命助の名前を 確認することができる。また、「元方金銀出納帳」17日条、「金銀引渡帳」17日条には、命助の上納金10両とその分配についての記録も残されている。 トップに戻る トップに戻る
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