文学部古文書室展示会
資料番号
史料名
形態
法量
時代
20
雑日記(命助永御暇仰付)
竪帳
23.0×16.7cm
安政5(1858)年5月15日
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雑日記(命助永御暇仰付) 解説

展示資料20
 雑日記(命助永御暇仰付) 竪帳 23.0×16.7cm 安政5(1858)年5月15日

解説

 7月14日、二条家御用の絵符を立て、二条家家臣と名乗り大小を差し、 家来を引き連れて堂々と平田の番所前を通過して盛岡藩領に入った命助(1820-1864)は、 その晩宿で捕縛される。 三閉伊一揆の主導者で逃亡中の百姓命助を捕らえた南部盛岡藩は、一方で、 盛岡城中御用人宛の添状まで持参していた二条家家臣三浦命助を捕縛してしまったことになった。 所持品から、命助が確かに京都二条家の家来となっていたことを知った盛岡藩は その処遇に困惑したものと思われる。本資料には、捕縛から10ヶ月ほど後、盛岡藩側の働きかけによって、 命助が二条家から永の御暇を命ぜられるに至る経緯が記録されている。
 上京した盛岡藩大坂留守居今渕定蔵(生没年不詳)は、命助の吹挙人であった関口監物を訪ね、 命助が盛岡藩領の者であり、犯罪者であることを訴えた。 関口監物はその旨を内々番所に届け出、その結果「二條殿を相偽候段不埒之到」として、 命助に対する永御暇が仰せつけられることになった。 この日、二条邸に赴いた今渕定蔵に対し、命助へ永御暇を申し渡す旨の切紙が手交され、 その趣旨が関口監物より口頭で伝えられたと記録されている。
 命助の永御暇については、「御側日記」15日条、安政5年「御家臣名前記」、 本学三田メディアセンター所蔵「内々番所日記」安政5年5月15日条などにも記録をみることができる。 「獄中記」の言葉通り、「京との御家来にしかと罷成り相下」った命助は、 盛岡藩からその後何等明確な沙汰のないまま、7年近くの獄中生活の後、 文久4(1864)年2月、栗林村百姓命助として牢死している。

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