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展示資料2 江戸ヨリ木曽街道新宮城ニ至ル地図 巻子2巻 万延元(1860)年7月 解説 江戸から中山道、木曽街道を通り、尾張、伊勢路を経て紀伊新宮に至るまでの道筋を描いた絵巻物である。 山野河海と街道筋を中心とした簡素で穏やかな印象を受ける道中絵巻であるが、 この資料が描かれたきっかけは幕末政局に関係している。 末尾の湯川樗斎(1818?-1862)による跋文によれば、江戸から新宮へ下るにあたり、 命によりその道筋を描いたとある。命じた人物は「丹鶴叢書」の刊行で知られる 和歌山藩徳川家の付家老水野忠央(1814-1865)である。 忠央は、安政5(1858)年、井伊直弼(1815-1860)と協力して紀伊藩主徳川慶福を 14代将軍(徳川家茂1846-1866)として擁立し、蝦夷地開拓・小笠原島の領有などまで企図した。 吉田松蔭(1830-1859)をして「水野奸而有才、世頗畏之・・・亦一世之豪也」とまで言わしめた忠央も、 万延元(1860)年3月の桜田門外の変の後、隠居して新宮城にて謹慎との処分を受けたのであった。 この絵巻は、忠央が新宮城への「帰郷」の道筋を描かせたものであった。 絵巻には宿場町や城下町が描かれるとともに、周辺の名所旧跡も書き込まれている。 中山道熊谷宿では『平家物語』の「敦盛の最期」で知られる熊谷直実(1141-1207)の旧跡、 浅間山には『伊勢物語』に載る在原業平(825-880)の詠歌が記される一方、 伊勢桑名には「焼蛤名物」といった名産品の紹介もある。 文化11(1814)年江戸に生まれ、中央の政界で活躍した忠央は、 万延元年6月13日江戸を立ち、30日には新宮城に入り謹慎生活を開始している。 元治元(1864)年に謹慎処分は解かれたものの、二度と江戸の地を踏むことなく、 翌慶応元(1865)年新宮において52歳で死去している。 古文書室初めての展示会Ⅰで展示資料1とした絵巻「ゑひす大こくかつせん」は この地図を書かせた水野忠央の旧蔵であり、絵巻の末尾に「新宮城書蔵」の朱印が 捺されている。 トップに戻る
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