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展示資料14~16 禅宗美濃国本巣郡神海村宗門御改帳 竪帳 解説 神海村でも有数の37石6斗余の持ち高を誇る角右衛門家では、文久2(1862)年から元治2(1865)年に至る4年程の間に、大きな家族構成の変化が生じていた。角右衛門から作右衛門に家督が譲られた文久2年から翌年にかけて、作右衛門は方県郡下鵜飼村(幕領:現岐阜県岐阜市下鵜飼)百姓利兵衛の息子利左衛門(24歳)を養子に入れた。同時期に、家長作右衛門に男子筆松、養子利左衛門に男子万之助が誕生していたが、元治元(1864)年から元治2(1865)年までの間に、筆松と万之助が相次いで病死してしまったことなどが記録されている。 筆松と万之助が病死した元治元(1864)年は、神海村全体の病死者数が例年になく高い年であった。宗門改帳の記録に従う限り、同村の例年の病死者数は10人前後であるのに対し、元治元年は32人(男20人、女12人)にも達していた。この年に村内で「潰れ」た7軒の家は、すべて家族の相次ぐ病死が主因であった。 トップに戻る 展示資料14 禅宗美濃国本巣郡神海村宗門御改帳 一家壱軒 高三拾七石六斗壱升四合 角右衛門 印 (付箋)「作右衛門」 角右衛門 七拾七歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 (付箋)「養父」 女房 六拾八歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 (付箋)「養母」 養子作右衛門 四拾八歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 (「養子」に白紙付箋) 作右衛門女房 四拾弐歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 (「作右衛門」に白紙付箋) (付箋)「養子利左衛門 弐拾四歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 当四月奉願上 岩田鍬三郎様御支配下当国方縣郡下鵜飼村利兵衛悴 利左衛門養子ニ引取申候」 孫女子た祢 拾七歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 (「孫」に白紙付箋) 孫女子さく 九歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 (「孫」に白紙付箋) 〆六人内 男弐人 女四人 (付箋)「男子筆松 弐歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 〆八人内 男四人 女四人」 展示資料15 禅宗美濃国本巣郡神海村宗門御改帳 一家壱軒 高三拾七石六斗壱升四合 作右衛門 印 養父角右衛門 七拾八歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 養母 六拾九歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 作右衛門 四拾九歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 女房 四拾三歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 養子利左衛門 弐拾四歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 女子た祢 拾八歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 女子さく 拾歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 男子筆松 弐歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 〆八人内 男四人 女四人 (付箋)「孫男子万之助 弐歳 美濃国本巣郡神海村旦[ママ]那寺 禅宗金輪寺 〆九人内 男五人 女四人」 展示資料16 禅宗美濃国本巣郡神海村宗門御改帳 一家壱軒 高三拾七石六斗壱升四合 作右衛門 印 養父角右衛門 七拾九歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 養母 七拾歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 作右衛門 五拾歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 女房 四拾四歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 養子利左衛門 弐拾五歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 女子た祢 拾九歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 女子さく 拾壱歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 男子筆松 三歳 同国同郡同村檀那寺 右同宗同寺 印 (付箋)「病死仕候」 孫男子万之助 弐歳 美濃国本巣郡神海村檀那寺 禅宗金輪寺 印 (付箋)「病死仕候」 〆九人内 男五人 女四人 (付箋)「〆七人内 男三人 女四人」 トップに戻る
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