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展示資料31~32 雑日記、駄賃帳並船切手渡留 解説 雑日記 安政4(1857)年1月~ 駄賃帳並船切手渡留 安政4(1857)年閏5月17日 嘉永6(1853)年、南部三閉伊一揆の終熄後まもなく、主導者の一人と目されていた百姓命助(1820-1864)は、村方騒動に巻き込まれ公金を持ち村から出奔する。仙台領で僧体となり数年間逃亡生活を続けた後、安政3(1856)年末には京都に姿を現し、数日の滞在でほどなく仙台に戻る。急いで資金を集めた命助は、翌安政4年再度上京し、閏5月17日、二条家の家臣となり、即日南部帰国のため、二条家御用の小田原提灯、差絵符と駄賃帳(人馬帳)を受け取っている。翌18日には、盛岡御城内御用人中宛てに、領内通行の安全を求めた二条家御側席4名の連署による添翰が白木の状箱に入れて命助に渡された。南部領ではお尋ね者であった命助は、二条家家臣として従者を引き連れ堂々と平田の番所を通過し南部藩領へと入った。しかし、夜半宿屋で番所役人により捕縛され、何等明確な沙汰のないまま7年近くの獄中生活の後、文久4(1864)年2月牢死している。 トップに戻る 展示資料31 雑日記 雑日記 安政四年丁巳年 従正月至十二月 御(勘定所) (閏五月)戊戌十八日雨時々強雨 弾正 (中略) 一 三浦命助 右近々奥州へ下向いたし候ニ付南部美濃守殿用人 中エ添翰遣ス如左 以手紙得御意候向暑之節各様弥御堅固 (虫損)珎重御事御座候然者 此御方御家来三浦命助義其御領地 閉伊郡大槌通栗林村百性佐馬之介 義命助親類ニ付此度同人右佐馬之 介方エ罷越致逗留候御領地之儀ニ付 此段無急度申入置候間御含置被下様 いたし度右御頼可得御意旨重役共 申聞候ニ付如此御座候以上 閏五月十八日 大村弾正 関口監物 大塚要人 入江伊織 森岡御城内 御用人中 右之通伊与奉書半切ニ認メ上封ジ三の紙 白木状箱ニ入 奥州 二条殿御内 森岡御城内 入 ―――― 上書 御用人中 入 ―――― 展示資料32 駄賃帳並船切手渡留 「駄賃帳並船切手渡留」嘉永七寅年八月改 御役所 壬五月十七日 奥州仙台 一 同(駄賃帳)壱冊 三浦命助 表紙共三拾枚☆ 帰国用意 御預り 関口監物へ渡し 同人吹挙也 右ハ従京都奥州南部迠 道中上可及取扱候事 (割印) トップに戻る
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