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展示資料12 乍恐以書付奉願上候(朝鮮人来日の国役掛に付) 一紙 縦32.5㎝×横133.5㎝ 明和元(1764)年11月 東海道川崎宿(神奈川県川崎市川崎区)の加助郷を務めている武蔵国都築郡高田村・山田村(神奈川県横浜市港北区)、橘樹郡有間村・土橋村(神奈川県川崎市宮前区)の4ヶ村が、宝暦度の朝鮮通信使来朝における伝馬役等を賄うための国役金賦課に対して、今回賦課を命じられなかった定助郷、大助郷の村々も含めた共同負担とし、その軽減を願い出た文書である。 江戸時代の宿場では、宿場常備の人馬を補助するため、近隣郷村から人馬を提供する助郷の制度が設けられていた。古くから宿場に付属している村々で、人馬の補助を義務づけられていた定助郷、特別な通行がある場合に臨時に補助が命じられた大助郷があったが、享保10(1725)年、定助郷と大助郷が助郷(定助郷)の名称で統一された。その後、交通量の増大によって新たに臨時に提供する村々として指定されたのが加助郷である。 本資料では、宿場まで距離が離れた(川崎宿まで3~4里)加助郷の村々が、定助郷よりも負担が大きいことを理由に、加助郷の村々のみ国役金を負担することに異議を唱えて共同負担を訴えている。定助郷、大助郷の村々に国役金賦課の沙汰がなかったことについては、展示資料13に記されている。 トップに戻る 乍恐以書付奉願上候 曽根会吉 小長谷大次郎 右知行所 武州都築郡 高田村 山本鉄次郎 志村又右衛門 河野銀平 曽根会吉 右知行所 同州 同郡 山田村 曽根会吉 遠山善次郎 右知行所 同州橘樹郡 有間村 長坂十郎兵衛 戸田五郎左衛門 右知行所 同州 同郡 土橋村 右村々一同申上候、當[当]春朝鮮人来朝帰國[国] 御傳[伝]馬并御賄御入用金国役掛ニ被為 仰付候旨、 先達而村々地頭所より以書付被申渡奉畏候、依之 乍恐御願申上候、 一、當[当]村々之義、先年より東海道川崎宿加助郷 相勤来、定助郷と違(麦にしんにょう)ひ、日々之御役ニハ無御座候 得共、私共村々より川崎宿江道法三四里より七八里迄 相隔、仮初之事ニも往返三四日宛も相懸り候故、 定助郷ニ而日々之様ニ相勤候御役より、折々相勤候 加助郷之難義強ク、別而近年御用繁々ニ而 一躰道法遠ク候故、御役勤候度々雑用多ク相掛り、 定助郷より加助郷ハ難儀強ク候段歴然ニ御座候、然共 大切之御役義故、困窮之村々無恙相勤来り候 御義ニ御座候間、何卒右之段被為 聞召分、別書 被為 仰付候国御役・定介<(助)>・大助・加介<(助)>、村々江割合 上納仕度奉願上候、偏ニ御慈悲を以、願之通被為 仰付被下置候ハヽ、難有奉存候、以上、 武州都築郡高田村弐給惣代 小長谷大次郎知行所 名主 利左衛門(黒印) 明和元申年十一月 同州同郡山田村五給惣代 曽根会吉知行所 名主 治郎左衛門(黒印) 同州同郡土橋村弐給惣代 長坂十郎兵衛知行所 名主 甚左衛門(黒印) 御奉行所様 トップに戻る
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