文学部古文書室展示会
資料番号
史料名
形態
法量
時代
22
乍恐以書付御訴訟申上候(琉球人参府に付品川宿加助郷御免願)
一紙
縦32.9p×横78.5p
宝暦2(1752)年11月
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乍恐以書付御訴訟申上候(琉球人参府に付品川宿加助郷御免願) 解説

展示資料22
 乍恐以書付御訴訟申上候(琉球人参府に付品川宿加助郷御免願) 一紙 縦32.9p×横78.5p 宝暦2(1752)年11月

  武蔵国豊島郡角筈村(東京都新宿区)と代々木村(東京都渋谷区)の名主・組頭・百姓代が、宝暦2年の琉球使節(謝恩使)参府に伴い品川宿への助郷を課された際、支配代官の伊奈半左衛門(生没年不詳)にその免除を嘆願したもの。
  両村が下板橋宿への助郷の他、享保年間より千駄ヶ谷塩硝蔵(焔硝蔵:幕府直轄の火薬庫)への人足も勤めているため、今回の助郷は「重役」にあたることを訴え、高井戸宿への助郷免除と朝鮮人来朝時の助郷免除の先例を挙げている。本資料で挙げられた「去ル朝鮮人来朝之節」は、寛延3(1750)年の朝鮮通信使来朝を指し、その際作成された嘆願書が展示資料7である。
  幕府直轄領の農村地域を支配する郡代と代官は、職務内容は同じであったが禄高と支配領域に大きな差があり、なかでも「関東郡代」を名乗る伊奈氏は世襲を続け、勘定奉行を兼任するなど絶大な権力を誇っていた。宝暦2年当時角筈村の支配代官であった伊奈半左衛門忠辰(生没年不詳)も、当時「関東郡代」のほか奥右筆組頭次席を兼任していた。


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乍恐以書付御訴訟申上候(琉球人参府に付品川宿加助郷御免願)




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