豊後国直入郡大野郡内知行帳(中川家文書)

資料番号
史料名
形態
法量
時代
1
豊後国直入郡大野郡内知行帳(中川家文書)
竪帳
30.0×23.5cm
文禄2(1593)年11月19日

展示資料1
 豊後国直入郡大野郡内知行帳(中川家文書) 竪帳 30.0×23.5cm 文禄2(1593)年11月19日

解説
 中川小兵衛秀成(ひでしげ)(1570-1612)が豊臣秀吉(1537-1598)から直入(なおり)郡・大野郡都合6万6000石を与えられた際の領知朱印帳である。日付の下の朱印が秀吉のものである(印文は「豊臣」)。中川家は天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いで戦死した豊臣秀吉の腹心・中川清秀を太祖とする家柄で、秀成は清秀の子にあたる。秀成は文禄2年に朝鮮出兵中の兄秀政(1568-1592)が戦死したため家督を継ぎ播磨三木城(兵庫県三木市)主となったが、同年豊後国岡(大分県竹田市)に移封された。本文書はその際に拝領した領地に関し、一村ごとの石高して所領権を認めたものである(直入郡分2万9038石余、大野郡分3万6962石)。中川家は以後明治維新に至るまで豊後国岡藩を領有することになった(石高はその後7万石余となる)。
 朱印状(朱印帳)とは朱印を押した武家文書で、戦国期には重要な政務・軍事の命令に用いられるようになり、この形態は江戸時代にも引き継がれた。  本文書が納められた袋には本文書を保存することになった経緯も記されている。「文禄二年十一月 太閤秀吉公御朱印牒」と題され、寛文4年(1664)5月に「古牒」の中から発見し、藩主に提出したところ、貞享元年(1684)3月にふたたび家老に下げ渡され、藩の御庫に納めることになったという家老の覚書である。寛文4年は展示資料2、3の領知朱印状、領知目録の一斉発給とも期を一にしており、大名家での記録の取り扱いに関する様子もうかがえて、非常に興味深い。

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